shiunからの手紙

Live different.

世界一周を目的にした旅じゃなくて、「気がついたらもう世界何周もしてる」そんな放浪の旅がしたい

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昨日はインドに来て初の列車に乗りこんで、アジメールという街から5時間ほどかけてジョードプルという「砂漠の青い街」に午後8時に到着した。

 
今日一日と、明日の夜までこのジョードプルという街に滞在し、このツアーの締めくくりに夜行列車に揺られてデリーまで戻ることになる。
インドに着いてから一息つかずにツアーを組んで、次から次の街へと慌ただしく動き回っているが、今日はホテルに滞在して、ゆったりとした時間を過ごしている。
 

インドをいま旅しながら、旅について考える。

よく「世界一周の旅をしたい」という夢を持った人や、実際に世界一周した人の話を耳にするが、ぼくは「世界一周」という言葉がどうもしっくりこないのだ。
 
「何をどうしたら世界一周なのか?」
 
飛行機に乗ってぐるっと地球の周りを一周したら世界一周なのか。
世界何ヶ国を経由したら世界一周と呼べるのか。
 
世界一周っていう表現は曖昧だし、みんな世界一周することに対しての憧れが強いのではないかと思う。そして世界一周して自分が何十ヶ国の国に行ったんだと誰かに自慢したくて、旅の目的はその数字に囚われている気がしてならない。
 

世界一周と世界放浪の旅の違い

では、世界一周と世界放浪の旅の違いは何なのか。
一言でまとめると、こんな感じだと思う。
 
「世界一周するという目的があり、行き先を決める」のが世界一周の旅であり、
 
「世界のどの国を訪れ、どこに行き着くか分からない」のが放浪の旅である。
 
世界一周の旅では、予め、ある程度は行く国やら場所は決まっていて、最終的な目的は最初から「世界を一周する」ことだ。
 
その目的の中には、「この国であれが見たいなー」だとか、「どこどこの国の、あそこに行けばきっとこんな体験が待っている!」といった先入観が紛れ込んでいる。
 
もちろん、すべては思い通りにいかないから、それ自体が旅の醍醐味でもあるのだが、世界一周するという目的を持った旅には、「まだ何も知らないはずの世界のありのままの姿」ではない、自分のフィルターがかかってしまう。
 
それに対して、世界放浪の旅の場合、最初に旅立つ国は決める必要はあるが、何ヶ国に行くかは重要ではないし、旅で何を見るかは決まっていない。
 
たとえば今回ぼくがインド来る前にまだ日本にいた時、「インドで何をするか、どこに行くか」はあえてほとんど決めずでこっちに来た。インドについても、ネットで調べることもほぼしていない。それはなぜかというと、「純粋な自分の感性で、まだ知らないインドという世界を体感したい」からだ。
 
もしまだインドに行ったことないのに、ネット上でインドに実際に行った人のブログを覗いたり、「地球の歩き方」などのガイドブックを買って読めば、その広告や、誰かが体験した過去の話からインドの想像を膨らまし、「インドとはきっとこういう国」だと知った気になってしまう。
 
それが嫌で、そういった情報から距離を置いて、自分の初体験から得る感覚を常に大切にするよう心がけている。
 

運命に身を委ねて、自然に、流れるように旅をする

放浪の旅はどこに行くか、何をするか決まっていない分、自由に動き回ることができる。
 
今回のインド旅でも、空港で旅人に出会い意気投合して、ほぼ初対面の人といきなり一週間のツアーを組んで、まさかの初日でタージマハルを拝めることになるとは思ってもみなかった。もし事前にホテルの予約をしてたり、予定を立てていたら、こんな風にその場の成り行きで決断する旅はできないだろう。
 
ぼくは、人にはやっぱり何か運命のような不思議なものがあって、自らの運命に導かれるように旅をしているという感覚を持っている。それは川の中で、流れに逆らうことなく転がる石ころのように、次第に丸くなり、自然と余計な部分は削り取られていく。
 

「気づいたらもう世界何周もしてる」そんな放浪の旅をしたい

世界一周したとか、自分が何ヶ国に行ったとかそういうことに囚われることなく、運命に身を委ねて、自然に流れるがままに、まだ見ぬ世界をどこまでも探検しにいく旅をこれからも続けていきたいと思っている。
 
 
終わりのない放浪の旅はつづく。
 
 
 
しうんより